パチンコ道

パチンコを楽しむ。パチンコに情熱を捧げる。どんな結果も受け入れる。それがパチンコ道である。

起こった出来事を判断しない

「ニュー・アース」(エックハルト・トール)より

パチンコ風に引用

 

思考はパチンコに勝っているとか負けているとか大当たりしているとかについて、それぞれ別個の存在であるかのように一つ一つ抜き出し、善か悪かを判断する。思考に頼り過ぎると現実は断片化してしまう。この断片化は幻想なのだが、その罠に落ちている時は、それが現実だと思い込む。しかし宇宙とは分断できない総体であり、そこではすべてがつながりあっていて、独立して存在するものは何もない。

 

すべてのものごとが深く関連しあっているということは、「善」と「悪」という区別が結局は幻想にすぎないことを意味している。善だの悪だのというのは限られた見方で、相対的一時的な真実を示しているにすぎない。このことはパチンコで5万発出したある賢い人物の物語を見るとよくわかる。5万発出したとき、友人は大喜びで祝ってくれた。「すごいじゃないか!」と彼らは言った。「きみはほんとうに幸運だ。」大当たりした男性は微笑んで「そうかもしれない」と答えた。彼は数週間、新しく買った自転車を運転して楽しんだ。ところがある日、交差点で酔っ払い運転の車にぶつけられ、重傷を負って病院に担ぎ込まれた。親戚知人が見舞いにやってきて言った。「とんでもない不運だったね」。またしても男性は微笑んで「そうかもしれない」と答えた。彼の入院中のある晩、地すべりが起こって自宅が海に流されてしまった。翌日やってきた友人たちが言った。「入院中で、運が良かったね」。男性はまた答えた。「そうかもしれない」。

 

この賢者の「そうかもしれない」は、起こった出来事について判断しないことを意味している。判断する代わりに事実を受け入れ、それによってより高い秩序に意識的に参画しているのだ。一見偶然に見える出来事が総体という織物のなかでどんな場所をもち、それにそんな目的があるのか、心では理解できないことが多いのを彼は知っている。