パチンコ道

パチンコを楽しむ。パチンコに情熱を捧げる。どんな結果も受け入れる。それがパチンコ道である。

いまという瞬間と仲直りする

「ニュー・アース」(エックハルト・トール)より

パチンコ風に引用

 

「私が満たされるには、大当たりする必要がある。なのに大当たりしていないのが不満だ。不満に思っておれば、そのうち大当たりするかもしれない」

「さっきの単発や確変スルーは継続率からしてあり得ない。それを私は恨んでいる。あれが連チャンしていれば、私はいま安らかな気持ちでいられたのに」

「さっきから確率の何倍もハマっている。こんなことはあり得ない。そのせいで私は安らかな気持ちではいられない」

「この店はもっと台の釘を開けるべきだ。そうすれば、私は安らかな気持ちでいられる。それを店がしないから、私は恨んでいる。恨んでいれば、店は釘を開けるかもしれない」

 

先にあげたのはすべて検討されていない想定、思考で、それが現実と混同されている。どれも、あなたがいま安らかな気持ちでいられない、いま十分に自分らしくいられない理由として、あなたを説得するためにエゴが創り出した物語だ。安らかな気持ちでいられるのと自分らしくいられるのとは同じことである。エゴは言う。将来のいつか、私は安らかな気持ちになれるかもしれない――大当たりすれば、連チャンすれば、出玉で捲れば。あるいはこう言う。私は決して安らかな気持ちにはなれない。なぜなら過去に単発、ハマり、大負けをしたことがあったから。人々の物語はみんな、「どうして私はいま安らかな気持ちになれないのか」という物語だ。エゴはあなたが安らかな気持ちになれるチャンスはいましかないことを知らない。知っていても、あなたがそれに気づいては大変だと恐れている。安らぎはエゴの終わりだからだ。

 

それでは、いま安らぎを得るにはどうすればいいか? いまという瞬間と仲直りをすることだ。いまという瞬間は、生命というゲームが展開している場である。生命は他のどこで展開することもあり得ない。いまという瞬間と仲直りしたら何が起こるかを、自分には何ができ、どんな行動を選ぶことができるかを、それよりもあなたを通して生命がどう展開するかを見つめよう。(中略)生命が踊り手で、あなたが舞踊なのだ。