「ニュー・アース」(エックハルト・トール)より
パチンコ風に引用
私は「パチンコの大当たりができません」と言う人にはたいてい、それはよかったですね、と応じることにしている。「大当たりできなくて困っているのがいいことなんですか?」。それじゃ考えてごらんなさい、と私は言う。困っているというのはどうこうことか? 「大当たりできない」というのは困ったことではない。困ったことというのは、「大当たりできないが、しかし大当たりしたい」、あるいは「大当たりできないが、しかし大当たりする必要がある」という状態だ。
では大当たりしたい、大当たりさせる必要がある、という思いを捨てられるだろうか? 言い換えれば、自分の価値を大当たりに求めるのをやめられるか? 思考にアイデンティティを求めるのをやめられるか? 大当たりしたい、大当たりさせる必要がある、という思いを捨てたら、困りごとはどうなるか? たちまち消えてしまう。自分は大当たりできないと素直に受け入れると、かえって安らかですっきりした状態になり、思考などを通じるよりもよほど真の自分に近付ける。思考によって大当たりをどうにかしようというのは、自分で大当たりに限界を引くことだ。
(中略)
ほんとうに大事なのはこの世界でどのようなパチンコ成績を残すかではなく、パチンコへの自分の同一化が行き過ぎてパチンコの大当たりが目的になり、自分の役割がその大当たりさせる目的だけになりきっていはいないか、ということだ。大当たりだけが目的になってしまうと、無意識になる。あ、大当たりだけを求めているなと意識すると、自分と求める思いに距離が生まれる。それが大当たりをもとめる思いからの解放の始まりだ。
|