パチンコ道

パチンコを楽しむ。パチンコに情熱を捧げる。どんな結果も受け入れる。それがパチンコ道である。

パチンコは儚く無常

「ニュー・アース」(エックハルト・トール)より

パチンコ風に引用

 

どんな行動となって現れるにせよ、エゴの隠れた動機はつねに同じだ。目立ちたい、特別でありたい、大当たりしたい、連チャンしたい、大量出玉を出したい、もっともっと欲しい、ということである。それにもちろん、自分は別だという感覚を感じたい。つまり他の相手、他の台が必要になる。

 

エゴは常に他者あるいは状況に何かを求めている。いつも隠れた課題を抱えているのだ。「まだ充分ではない」と感じ、単発、ショボ連、釘の悪さに苛立っていて、なんとかそれを埋めなければならない。そのために投資を続けたり台を変えたりするが、たとえ一時はよくなったように見えても、その成功は決して長続きしない。大当たりできないことも多いし、たいていは「私が望む連チャン」と「実態」とのギャップに動揺し苦しむ。

 

エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。自分が何者でもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。結局エゴの行動はすべて、この不安を解消するためなのだが、エゴにはせいぜい大当たりや連チャンや大量出玉によって一時的にこの不安を紛らすことしかできない。幻想は決してあなたを満足させてはくれない。ほんとうのあなたに気付くことができれば、それだけがあなたを解放してくれる。

 

なぜ不安なのか? エゴは大当たりとの同一化によって生じるが、実はどんな大当たりも永遠ではなく、すべては移ろいゆくことをどこかで承知している。だからどれほど大当たりしているように見えても、エゴにはいつも不安定な頼りなさがつきまとう。

 

(中略)

 

どんなに大量の出玉だろうと、すべての大当たりも出玉もハマりも単発も釘の悪さも不安定だと気付き、それを受け入れると、身の内に安らかな気持ちが湧き起こる。パチンコは儚く無常だと認識したとき、自分のなかの形のない次元、死をも超える次元に目が開かれるからである。イエスはそれを「永遠の生命」と呼んだ。