パチンコ道

パチンコを楽しむ。パチンコに情熱を捧げる。どんな結果も受け入れる。それがパチンコ道である。

パチンコが打てる豊かさを認める

「ニュー・アース」(エックハルト・トール)より

パチンコ風に引用

 

自分を何者だと考えるかは、パチンコ台にどう扱われるかとも密接に関連する。大勢の人がパチンコが大当たりしないと不満を抱いている。「ハマるし、当たってもいつも単発ばかりだし、確率詐欺だ」と彼らは言う。「自分は不当な扱いを受けている」と。こういう人はパチンコ台が大当たりしても、裏があるのではないかと思う。「どうせ単発か、すぐに終わる。簡単に連チャンするわけがない」

 

では彼らは自分をどう考えているのか。「乏しい『小さな』私は必要を満たせないでいる」と思っている。この基本的な誤解がパチンコ台と仲良くできないもとになる。この人たちは自分には与えるものが何もなく、お店やパチンコ台は物惜しみをして大当たりや出玉を与えてくれない、と信じている。

 

彼らの現実はすべて、自分は何者かという妄想の上に築かれている。それが大当たりの妨げになり、パチンコに負ける。自分が考える自分に欠乏――お金でも、確変でも、承認でも、愛でも――という考え方がしみつくと、いつも欠乏を経験する。すでにある自分の人生の豊かさを認めず、ハマりや単発や負けばかりが目につく。すでにある自分の人生の豊かさを認めること、それがすべての豊かさの基本だ。お店やパチンコ台が物惜しみをして与えてくれないと思っているが、実は自分自身が物惜しみをして世界に与えないでいる。なぜ物惜しみをするかと言えば、自分は小さくて、何も与えるものがない、と奥深いところで信じているからだ。

 

 

パチンコ屋に行けるというだけでも、既に相応の豊かさがある。パチンコに行くための時間的余裕があること。パチンコに出かけられる程度に健康であること。パチンコを打つためのお金の余裕があること。パチンコに行くための移動手段があること。外に出るための服や靴があること。パチンコ屋が今日も営業してくれていること。パチンコを楽しむために目があり、耳が聞こえること…。

パチンコには確かに負けることもあるかもしれないが、その背景や過程にある豊かさを感じてみよう。それが豊かなパチンコの始まりではないだろうか。