パチンコ道

パチンコを楽しむ。パチンコに情熱を捧げる。どんな結果も受け入れる。それがパチンコ道である。

当たりゼロのとき

パチンコに行って、大当たりゼロで帰る。

 

こんなに悔しいことはない。

大当たりを楽しむためにパチンコを打っているのに、幾ばくかのお金をつぎ込んだ上で、何も楽しめなかったし、何の成果も上げられなかったのだ。

愚痴の一つでも言いたくなるものだろう。

 

しかしながら、である。

本当に何の成果もなかったのだろうか。

 

次に良い成果を出すために学んだり改善するところはなかったのだろうか。

 

例えば台選びの立ち回りだ。ちょっと打って、回らないから移動する。また座って、また回らないから移動する。

やがて、こんなに回らないなら他の台を打とうと思って、目に付いたちょっと気になる機種を打つ。でもやっぱり大して回らない。

 

このような繰り返しでは打っていてもテンションが上がらないし、腰を据えて大当たりを狙うという気も起きない。釘を大して見ずにただ座るというのは1回転でも多く回して大当たりを狙うという基本から遠ざかっている。

 

釘の見方についても、ヘソ、風車、スルーなどといった共通的な部分はあるにしても、機種ごとのこぼしポイントなど特殊な部分はある。

そういったところまで研究して見るようにしているのか。

 

反省点はなかったのか。

次に悔しい思いを少しでもしないために、今やれることはないか。

 

それでもし、今後の勝率を上げることができたのなら、悔しさというバネをプレゼントされたという見方もできるのではないか。

それは店からのプレゼントではなく、神からのプレゼントかもしれない。

 

あるいは、人は学ぶためにこの世に生まれてきたのだという。

 

それでは、この当たりゼロという仕打ちは何を学べと言っているのか。

 

先ほど挙げたようにまだ改善できるポイントがあることを言っているのか。

では、何もかも条件は完璧で、であるにもかかわらず大当たりがゼロだった場合は?

 

人生の学びともなれば、それは単なる学問ではなく、心の学問なのではないか。

心の学問として、この大当たりゼロという状況をどうとらえるか。

 

100人いたら100人ともが文句を言いたくなるようなこの状況で

 

私は、俺は、自分は、

確かに、そして静かに、この事実を受け入れる。

 

それは、パチンコ台に対する不満ではなく

パチンコという遊戯を楽しむ者としてパチンコ台を尊敬、リスペクトした上で

パチンコ台が表現したものを受け入れるという、愛である

 

パチンコが思い通りに行かない時は、愛を学んでいるのだ。

人が人に優しくなれるのは、愛の力だ。

負けたことのある人間は、負けている他人の気持ちがわかる。

パチンコにおいても愛を学ぶことができるのなら、こんなに楽しくありがたい趣味はない。