パチンコ道

パチンコを楽しむ。パチンコに情熱を捧げる。どんな結果も受け入れる。それがパチンコ道である。

パチンコの当たりを手放す考え方

「 わかっ た。 私 は とても 当たりを引きたい けど、 あなた の 意志 を 示し て ください!   もし 当たる こと に なっ て いる の なら、 演出で示して ください。 でも 違うなら、 私 を 当たっても 当たらなくても 大丈夫 に し て ください」

 

「 わかっ た。 私 は このSTをとても連荘させたい けど、 あなた の 意志 を 示し て ください!   もし 連荘する こと に なっ て いる の なら、 演出で示して ください。 でも 違うなら、 私 を 連荘してもしなくても 大丈夫 に し て ください」

 

 

トーシャ・シルバー. それはあなたのお金じゃありません: 聖なる豊かさで満ち足りて生きる! (pp.38-39). 株式会社ナチュラルスピリット.

出来事や形は、幸福とは関係ない

「ニュー・アース」(エックハルト・トール)より

パチンコ風に引用

 

幸福になれるかどうかは大当たり次第だと、つまり幸福は形に依存していると、人は信じている。何が起こるかなど、この宇宙で最もあてにならないことだと気付いていない。起こる出来事はつねに変化しているのに。

パチンカーは、現在の瞬間が、ありえないハマりによって損なわれているとか、連チャン率が高いのに連チャンしなかったゆえに欠陥があると思う。そのために人生(生命)本来の深い完全性を、つねに目の前におり、当たったことや当たらないことを、つまり形を超えて存在している完全性を見逃す。いまこの瞬間を受け入れ、どんな形よりも深くて時間によって侵されることのない完全性を見出さなければいけない。

 

生きる喜び(真の幸福はこれだけだ)は大当たりや連チャンを通じてもたされはしない――起こる出来事を通じてもたらされることはあり得ない。その喜びは外からもたらされることは決してない。それはあなたのなかの形のない次元から、意識そのものから放出されるものであり、したがってあなたと一体だからである。

 

大当たりが幸福というものを持っているのではなく、大当たりというのはただの出来事ということなのだろう。では、幸福はどこにあるかというと、自分の中にある。出来事は幸福と関係なく、自分の感じ方次第だからだ。

 

この起こる出来事が幸福や不幸をもたらすかのように思え、惑わされないために、抵抗せずにあるがままを受け入れるということである。

そもそも仕組みとしては、自分の発しているエネルギーが出来事として反映されるから、出来事を受け入れずに反応していると無限ループになる。受け入れて、自分の意識、エネルギーが変容した時、はじめて出来事が変化してくるのだろう。

 


 

 

パチンコ台と友達になる

「ニュー・アース」(エックハルト・トール)より

パチンコ風に引用

 

現在という瞬間を友人としたいか、敵としたいか? 現在という瞬間はパチンコと切り離すことができないのだから、実はパチンコとどんな関係でいたいかを決めることでもある。いまという瞬間を友人としたいと決めたら、まずあなたが働きかけるべきだ。大当たりしなかろうと単発であろうと、友人らしく歓迎すること。そうすればどうなるかはすぐにわかる。パチンコはあなたの友人として接してくれる。大当たりを与えてくれるし、状況は都合よく展開する。一つの決断があなたの現実をまるごと変化させる。だがこの決断は何度も繰り返してしなければいけない――それが自然な生き方になるまで。

 

都合の良いときにだけ仲良くして、辛い時に突き放すというのは真の友人ではない。パチンコの真の友人であれば、辛い時(ハマりや単発)にこそ優しい気持ちで寄り添うものではないだろうか。その友人の状況を否定したりけなしたりしてしまったら、果たして友人はどう思うだろうか。自分にとってもそれが気持ちいいだろうか。たとえそれがどんな結果でも、パチンコ台という友人とその日一緒に遊んだ結果なのだから、評価論評せず歓迎するべきものではないだろうか。

 

パチンコ台は友達、怖くないよ!

 


 

 

当たらなくてもかまわないけど、当たってくれたらうれしい。でも、当たらなくてもいいけどね

「宇宙一がんばらない幸せの法則」(小林正観)より

パチンコ風に引用

 

「スプーン曲げ」という現象があります。

テレビに出てきて、いつも100%曲げることができる人を、マジシャンと呼びます。そうではなくて、曲がるときもあるけど、曲がらない時もあるという場合は、その人は、超能力で曲げている可能性があります。

イライラしていると曲がらない。そして、幸せで満ち足りていて、喜びにあふれているとき、楽しい時に曲がる。どうしても曲げなくてはいけない、と心に念じて”ねばならない”と思った時には曲がりません。曲がらなくてもかまわないけど、曲がったらうれしい、楽しい、と喜びだけを上乗せして、曲がることにこだわらないでいると、曲がる。そういうとき、人間の脳からは、金属をも溶かすものすごい念波が出るらしい。これを宇宙語で「ギマネ波」と呼ぶそうです。

 

パチンコ風に言い換えればこういうことでしょう。

 

イライラしていると当たらない。そして、幸せで満ち足りていて、喜びにあふれているとき、楽しいときに当たる。どうしても当てなくてはいけない、と心に念じて”ねばならない”と思った時には当たりません。当たらなくてもかまわないけど、当たったらうれしい、楽しい、と喜びだけを上乗せして、当たることにこだわらないでいると、当たる。

 

例えば、全然当たらない台があったとします。

「当たらなくてもかまわないけれど、当たってくれたらうれしい、楽しい、幸せ。ありがたい。でも、当たらなくてもいいけどね」というふうに想念を送ると、念波が出ます。

 

 

大当たりさせたいと思っているのであれば、「大当たりしてくれなきゃ、いやだ」と思っているうちは、ギマネ波が出ていないので、超能力は使えません。でも、「大当たりしてくれたら、うれしい。でも、そうならなくてもいいけどね」と、喜びの上乗せだけの想念を送っていると、なんと、大当たりさせることができるのです。そういう「力」が、人間にはあります。

 


 

 

起こった出来事を判断しない

「ニュー・アース」(エックハルト・トール)より

パチンコ風に引用

 

思考はパチンコに勝っているとか負けているとか大当たりしているとかについて、それぞれ別個の存在であるかのように一つ一つ抜き出し、善か悪かを判断する。思考に頼り過ぎると現実は断片化してしまう。この断片化は幻想なのだが、その罠に落ちている時は、それが現実だと思い込む。しかし宇宙とは分断できない総体であり、そこではすべてがつながりあっていて、独立して存在するものは何もない。

 

すべてのものごとが深く関連しあっているということは、「善」と「悪」という区別が結局は幻想にすぎないことを意味している。善だの悪だのというのは限られた見方で、相対的一時的な真実を示しているにすぎない。このことはパチンコで5万発出したある賢い人物の物語を見るとよくわかる。5万発出したとき、友人は大喜びで祝ってくれた。「すごいじゃないか!」と彼らは言った。「きみはほんとうに幸運だ。」大当たりした男性は微笑んで「そうかもしれない」と答えた。彼は数週間、新しく買った自転車を運転して楽しんだ。ところがある日、交差点で酔っ払い運転の車にぶつけられ、重傷を負って病院に担ぎ込まれた。親戚知人が見舞いにやってきて言った。「とんでもない不運だったね」。またしても男性は微笑んで「そうかもしれない」と答えた。彼の入院中のある晩、地すべりが起こって自宅が海に流されてしまった。翌日やってきた友人たちが言った。「入院中で、運が良かったね」。男性はまた答えた。「そうかもしれない」。

 

この賢者の「そうかもしれない」は、起こった出来事について判断しないことを意味している。判断する代わりに事実を受け入れ、それによってより高い秩序に意識的に参画しているのだ。一見偶然に見える出来事が総体という織物のなかでどんな場所をもち、それにそんな目的があるのか、心では理解できないことが多いのを彼は知っている。

 

 


 

パチンコが打てる豊かさを認める

「ニュー・アース」(エックハルト・トール)より

パチンコ風に引用

 

自分を何者だと考えるかは、パチンコ台にどう扱われるかとも密接に関連する。大勢の人がパチンコが大当たりしないと不満を抱いている。「ハマるし、当たってもいつも単発ばかりだし、確率詐欺だ」と彼らは言う。「自分は不当な扱いを受けている」と。こういう人はパチンコ台が大当たりしても、裏があるのではないかと思う。「どうせ単発か、すぐに終わる。簡単に連チャンするわけがない」

 

では彼らは自分をどう考えているのか。「乏しい『小さな』私は必要を満たせないでいる」と思っている。この基本的な誤解がパチンコ台と仲良くできないもとになる。この人たちは自分には与えるものが何もなく、お店やパチンコ台は物惜しみをして大当たりや出玉を与えてくれない、と信じている。

 

彼らの現実はすべて、自分は何者かという妄想の上に築かれている。それが大当たりの妨げになり、パチンコに負ける。自分が考える自分に欠乏――お金でも、確変でも、承認でも、愛でも――という考え方がしみつくと、いつも欠乏を経験する。すでにある自分の人生の豊かさを認めず、ハマりや単発や負けばかりが目につく。すでにある自分の人生の豊かさを認めること、それがすべての豊かさの基本だ。お店やパチンコ台が物惜しみをして与えてくれないと思っているが、実は自分自身が物惜しみをして世界に与えないでいる。なぜ物惜しみをするかと言えば、自分は小さくて、何も与えるものがない、と奥深いところで信じているからだ。

 

 

パチンコ屋に行けるというだけでも、既に相応の豊かさがある。パチンコに行くための時間的余裕があること。パチンコに出かけられる程度に健康であること。パチンコを打つためのお金の余裕があること。パチンコに行くための移動手段があること。外に出るための服や靴があること。パチンコ屋が今日も営業してくれていること。パチンコを楽しむために目があり、耳が聞こえること…。

パチンコには確かに負けることもあるかもしれないが、その背景や過程にある豊かさを感じてみよう。それが豊かなパチンコの始まりではないだろうか。

 

 


 

痛みや怒りを素直に認める

「ニュー・アース」(エックハルト・トール)より

パチンコ風に引用

 

パチンコの負けによる痛みや怒りを感じた時、自分は何かが間違っている、ダメな人間なんだなどと誤解してはいけない。自分を問題視する、それはエゴが大好きなことだ。痛みや怒りがあると気付いたら、そのことを受け入れなくてはいけない。受け入れずにいると、きっとまた見えなくなる。

受け入れるとは、何であればその瞬間に感じていることを素直に認めることだ。それは「いまに在る」ことの一部である。いまに在ることに反論はできない。いや反論はできても、自分が苦しむだけだ。認めることを通じて、あなたは広々とした、せいせいとした自分自身になれる。全体になれるのである。もう、断片ではない。あなたの本来の真のエネルギーが沸き起こる。それは神の本性と一体だ。

 

パチンコを心から楽しみ、勝ち負けは関係なく楽しかった、やってよかった、お店や人に感謝、という状態になる。それが理想かもしれないが、何か納得がいかないことが出てくるかもしれない。

しかし、恨みや怒りを感じてしまう自分はダメだ、という判断をする必要はない。自分はそんなことを感じている、ということを抵抗せずに認めて、ただ観察をすることだ。そうすることで、自分や事実を否定せず、見失わず、正しい判断ができたり、エネルギーが湧いてくるというものなのだろう。